80年代後期から今まで、西安市文物保護考古所は、建設事業に伴う事前調查として、西安市の北郊外にある漢代長安城遺跡の南東部に位置する龍首原の范南村など、十余地点の漢代墳墓群を発掘した。一連の発掘で前漢および後漢(兩漢) の墳墓が約500基檢出された。
  前漢の200余年間、首都長安は繼続して当时の全國の政治、經濟、文化の中心地であつた。漢代長安城の郊外で発掘調査された兩漢の墳墓は、その他の地域の漢代墳墓と比較した場合、先駆的かつ典型的な性格を備えている。今まで前漢早期 (紀元前206年~紀元前118年) に属すると発表された墳墓の資料は少數であるが、かつて周·秦の地と重複し、京畿近くの郊外にある前漢早期の墳墓に反映されている“承前啓後”、すなわち連続性を有する文化の樣相は、疑いなく重要な資料である。これらを鑑み、私々は,約500基の兩漢墳墓の内、まず42基の前漢早期に属する墳墓の資料をまとめて発表することにした。
  さて、 42基の墳墓はその形態によって、 竪穴土墓と竪穴羡道洞室墓、 斜坡羡道洞室墓の三類型に分類できる。范南村墓地に位置し封土をもつ西北医療設備廠第120号墓を除外して、現状で他の墳墓はすべて封土を持たない。やや大型の墳墓のかには羡道が築土で埋められたものもある。確認された墳墓はすベて木板の門扉で閉塞されており、その他の材質の門扉は検出されていない。葬具 (内部主体) は通常一椁一棺であるが、ある小型の墳墓には椁がなく一棺のみが使用されていた。やや大きい墳墓は一棺一椁一框架 (木枠組)、または一棺二椁を用いる事例が多い。被葬者の埋葬状態が確認できる事例では、二基の屈葬のほか、すべて伸展葬である。通常、頭位は墓門方向に向いている。
  これらの墳墓にあゐ副葬品は、土器が大部分であるが、銅·鉄·鉛·玉石·骨牙·漆器などで製造したものがある。土器には、鼎·盒·鈁·壺などの銅製禮器を模倣した土器群と、罐·盆·缸·釜·缶·房倉などの日常用土器との、二十種類余りる。他に、女跽座俑、女立俑、動物俑飾、鳳鳥龜座俑、翼獸俑、魚俑などの陶俑と、紐鐘·甬鐘などの陶製樂器もある。銅器には、鏡·鍪·盆·勺·車馬裝飾器·半兩錢などがある。鉄器には、刀·杵·臼·灯·舖首などがある。鉛器には、櫛·車馬裝飾器がある。玉石器には、印·蟬·猪·璧·塞·珠などがある。骨牙器いらないは、馬鑣のみ発見された。漆器は腐朽に起因して完品はないが、遺存した痕跡からみれば、盆·耳杯·盒·奩などがあると考えられる。
  彩絵した土器もある。主に鼎·盒·壺·鈁·盆·房倉などの胴部に見られ、色彩は主として赤色であるが、青·緑·藍·黄色なども交えている。紋樣は雲紋が最も多く、それに次ぐのは弦文であり、他に鋸歯文などもある。
  特に、現状では全国で數個所のみ検出されている早期の施釉土器は、范南村西北医療設備廠第170号墓から、盒·壺·倉·釜·甑·盆·豆を一組として出土した。これは、施釉土器の起源に関する研究に、貴重な参考資料を提供するといえし、注目すべきものである。
  文字については、主として缶器の上に刻した文字と朱書した文字が発見され、字体は篆書である。その主要な内容は姓と容量である。その他、銅鈁·銅壺·銅鏡·銅錢·銅印·玉 (水晶) 印·封泥·鉛櫛などの上にも文字が書がれている。
  これらの墳墓は、形態や副葬品からみれば、中小型の墳墓であり、その墓主は凡そ大夫と士との二等級に相当すると推定できる。ただし、何基かの墓及びその墓主は、恐らく平民である。墳墓の年代については、范南村墓地の西北医療設備廠第10号墓は秦末漢初に比定でき、その他の墳墓の年代は漢·文帝から漢·武帝初年にかけての間にあると推定している。
  本報告書は三部から構成されており、第一部は、歴史的背景、墳墓の分布及びその地理的位置、発掘過程、資料の整理·編纂を叙述する。第二部は、発掘報告であり、これらの前漢早期の42基の墳墓の資料を個別に逐一記述する。第三部は、上述した資料から派生する、特定問題についての検討·研究編である。